五月の空の下、大手町のオフィス街を、日本橋の問屋街を、秋葉原の電気街を、朱と金の神輿が進んでいく。担ぎ手の掛け声がビルの谷間に反響する。二年に一度、江戸がこの街に帰ってくる——神田明神の神田祭である。
慶長五年(1600年)、徳川家康は関ヶ原の戦いを前に神田明神へ戦勝を祈願した。勝利の日が九月十五日の祭礼日と重なったことから、神田祭は徳川家の格別の庇護を受けることになる。祭りの行列は江戸城の中まで練り込み、将軍の上覧を受けた——「天下祭」の名は、ここから来ている。
江戸の頃、行列の主役は三十六本を数えたという山車だった。しかし明治の半ば、電線が街の空を覆うと背の高い山車は通れなくなり、主役は神輿へと移っていく。神田祭は、街の変化に形を合わせながら続いてきた祭りである。
セイヤ、ソイヤ。
本祭は西暦の奇数年、五月中旬。神幸祭では、だいこく様・えびす様・平将門命の三柱を乗せた鳳輦・神輿の行列が、神田・日本橋・大手町・秋葉原にわたる氏子百八町会を一日かけて巡行する。翌日の神輿宮入では、大小およそ二百基の町神輿が次々と神田明神を目指し、境内は終日、掛け声と熱気に包まれる。
本祭のない年は「陰祭」。静かな年と沸く年が交互に訪れる——この二年周期のリズムそのものが、四百年つづく江戸の時間の刻み方である。
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